終電が、向かいのスナックの窓に映った。今日も1日が終わった。

金曜日。先週のPUNPEEのソファーキングフライデーをradikoのタイムフリーで聴き終わり、Apple MusicのPUNPEEプレイリスト?を聴き、全曲終わったと思ったらちょうど25時になった。ナイスタイミング!と今週のを生で聴き始めた今。

 

もうベランダでビールを飲むには寒すぎる。早々タバコを2本吸い終えリビングに戻る。

すきな人からの返事は来ないけど、金曜の夜はいつもそうだから特に気には止めない。言いようのない切なさを感じながら最早ただ眠くなるために飲んでいる発泡酒を流し込む。

切ない。なにが?

 

リスペクトできる人間がたくさんいることは幸せだと思う。心焦がれるものがあり、それに認められるように生きようと試みることは楽しい。遠ければ遠いほど、生きるエネルギーになる。

昔から憧れの人間と自分とのギャップに苦しみながらも、それを生き甲斐として生きてきた。

だのに、生きれば生きるほど「憧れられるもの」は減って行く。意外と世界は深くなくて、みんな実は手の届くところにいる。自分はそれになれなくとも、理解することが可能な範囲にしかない。

 

初めてスカイツリーの全体像を首を持ち上げることをせずに見える場所に行ったとき、とても感動した。その場所からスカイツリーにどんどん近づいて歩いていくにつれて、その建築物のディテールが現実的に見えてきて幻滅した。なんだ〜この建物、あり得るものであって建て得るものなんだな、と。

 

憧れを抱いている人間というのもそういうかんじで、近づいていけばいくほどその人が人間的で自分とそう違わないことに気がつくと、悲しいくらい幻滅する。遠くにあるべき存在というのは近づきたいという欲求を生んだとしても、近くべきではない。もしくはずっと遠くにあり続けてくれるくらい本当に本当に遠いものでなければならない。8億光年くらい遠く。

 

人間関係におけるコミュニケーションというのは、公的必要性に迫られる場合以外は、快楽の為のものだと思う。伝えたいという欲望から伝え、知りたいという欲望から受け取る。相手があって、相手に何かしらのものを与えたい・受けたいという欲望。

 

でもコミュニケーションって結局は跳ね返ってくる「自分」を受け取りたいだけなのではないだろか。相手が受け取っている「自分」の言葉を受け取るために話を聞いているんじゃないか?

愛されたいは率直な欲望として、愛したいという欲望も自分が投げた愛の跳ね返りとして何かを受け取りたいから愛したいだけなんじゃないか?もしくは「愛している」自分に酔っているだけ?

 

結局はお互いのオナニーなのではなかろうか。お互い自分を気持ちよくするために相手を活用しているだけなのではなかろうか?

そう考えた時、自分がオナ道具に使われているということより、相手をオナ道具に使っているかもしれないということに悲しみを感じます。

 

どんなに人を愛していると思っても、それは結局エゴであるかもしれないのだ。どこまで行ってもエゴ。死にたくなる話ですね

 

とか書いてたらPさんのラジオをまともに聞けず小袋のラジオが始まった。Pのあと小袋のラジオやってたの今知った…

 

あ〜娯楽というものについてもそのうち文章を書きたい。

世の中は切ないことばかりなので…