アイハブノーマネー

表現を目的としてなかった、ただ逃げや発散として表現を欲していた頃の生き方が染み付いてしまっているな。

環境か生まれつきかは分からんが、傷つきやすい心を育ててしまったからには、と、なるたけ傷つかないように若しくはなるたけ早く傷を修復させる方法ばかり考えて生きてきた。小学生の頃から毎晩泣きながら1日を反省して、生きやすい自分を築いてきた。表現は自分を外側から眺めるための手段でしかなかった。

しかし最近モヤっと気がついてしまった。心の生傷を増やさないように生きることって感情を削ることなのではなかろうか?

感情が絶頂となる瞬間、心揺さぶられる瞬間を思い出そうとしても上手く行かない。心揺さぶられる瞬間がそもそもないのか、自己防衛の為に忘れ去ってしまっているのか。

生きる為に忘れる能力というのを身につけた覚えがある。例えば恥をかいた記憶とかってどんなに思い出したくなくても突如フラッシュバックして1人赤面してしまうこととかあるじゃないですか。それ、ツレェなあと思って意識的に押さえつけてしまう癖がついちゃってるな。

しかし表現の発端は感情の高ぶりであるし、どうにもならない感情のエネルギーが作品になるのだと思っている私は、こんなんじゃアカンのや。

 

上手く生きることと表現をすることは両立し得ないのかしら。やはりギトギトに傷つく人間の方が生々しい表現をできるでしょーよ。

でもね、悲劇臭いヤツは嫌だな。傷ついてることに酔っているような人間って確かに人間臭くはあるけども、もうそういうコンテンツ腐るほどあるし、飽きました。

もっとユーモラスでどデカイけど軽やかで、かつどっしりした物が見たいよね。

結局カッケーものがすきなのだ。刹那的でもよい、カッケーを求めていたい。

 

本当は茨の道を裸で進んだみたいに傷だらけなのにそんな事はおくびにも出さず飄々としていながら、やっぱり目の奥には孤独があるような、そんな人間を私はカッケーと思うな。

 

21年しか生きてないので人間データが足りてない。まだまだインプットをしなければならない。考察には材料が必要すわ。頑張りますけども。