はい

タバコ臭い手でニベアを顔に塗りたくる

生きること自体のさびしさを、自覚がなくとも抱えている人間以外言葉が通じないと思っている気がする

安い発泡酒で緩んだ脳みそから流れる液体を、声にならない叫びとともにベランダで吐く

煩悩を取り去るのではなくて煩悩に苦しむ己を眺めて哀笑できる人間の方がよっぽど釈迦より悟っているのではないでしょうか。

つまりなにがいいたいのか

つまりなにがしたいのか

何のために明日に備えて寝るのか

明日なにがあるのか、知ってますか?何もないです。今日と同じように何もない。今日、初めての経験をして初めての感覚を味わったように、明日も初めての経験をして初めての感覚を味わうだけ。つまり何もない。新しいとか初めてとか、そんなことは本当はなんでもない。無です。

それじゃあ何のために生きているのか?私は無のために日々変形しながら生まれ持った美しいなにかを削りながら死に向かって進んでいるのか?イエス。その通りです。しかしそれが快感なのかもしれないという気づきが少しばかりあるために、それを確信に変えるために、非日常を含めた日常をやっているわけだ。

と、結論を出したら生きることが終わる

 

あーあー面倒くさい。言語化できない感情を言語化したいという欲望があるので、ずっと満たされないままきっと死ぬ。

ああ満足したこれで死ねる、と思いながら死ぬことを望みながらそうならずに煩悩に苦しめられながら死ぬことを欲している(?)