作者と作品

作者と作品の関係性、というのはもう随分長らくたくさんの知識人達によって議論されてきた議題だと思う。しかし議論には実感というものが必要であって、最近物作りに片脚を踏み込み始めた私は改めてこの議題を持ち出して考察したい。

 

横尾忠則がこんなツイートをしていた。

https://twitter.com/tadanoriyokoo/status/1176422009716142081?s=21

 

私は横尾忠則が好きなのだが、彼を好きになったきっかけは彼が地元の美術館でY字路の絵を描いているのを生で見たことだった。彼の絵が好きになった。彼の絵を好きになった途端、横尾忠則の書いた文章というのがたくさん存在することを知り、目に付いたものを読むようになった。彼の人生観や思想を好きになった。彼の書く文章を好きになった。彼の思想や経歴を知ってから彼の絵を見ると、さらに彼の絵に引き込まれた。

私は横尾忠則のツイートを読むのが好きだった。彼の思想のライブ配信!人間・横尾忠則を好きな者として、同時代に生きていること、その日常や思想を随時知れることを嬉しく思った。

私は横尾忠則の作品も、その作者・横尾忠則自身も好き。彼がツイッターを作品をより多くの人に見てもらう為にやっていたとしたら、その目的は果たされなかったのかもしれない。でも人間・横尾忠則を好きな人々にとって彼のツイートは彼を更に好きになる動機となっていたことは間違いない。私もその1人だ。

 

世の中にはこのように、作者と作品どちらのことも好きになるということが当たり前ではない。作品は大好きだけど政治的な思想が合わないとか、人間性は大嫌いとか。でもそれが作品を嫌いになる要素にはなり得ないはずである。逆も然り。

作品は作品として、作者が作り上げた瞬間に独立する。作者が作品に込めた思いが全く正しく完全に伝わることなど(多分)殆どなくて、作品として出来上がった瞬間、作品という存在は受け手に委ねられる。

 

そういった意味で、何か芸術作品を学問として研究するとき、作者のバックグラウンドや思想に関する発言などから作品を読み解こうとするのはありがちな手であるが、これは間違っていると思う。作者が作品に込めた思いというのは、もしかしたら一部分発見することができるかもしれない。しかし、純粋にその作品という存在を研究しようとする場合には作者は考慮不要である。

 

先日、劇団の大先輩が「演劇を通して自分を好きになってもらおうとするな」と言っていた。その時は「うんまあそうよね」くらいにしか感じていなかった言葉が、先程伏線として回収された気がした。

俳優という表現者にとって、作品は「舞台に立つ自分」である。つまり、人間・俳優自身と「舞台に立つ自分」は作者と作品の関係であって、お互い独立した存在。作者は何かしらの思いを込めて演技をする。その演じた自分は作品として独立している者なので、いくら「舞台に立つ自分」が評価されようと、俳優の人間性を評価されたわけではない。自分が自信を持って作り出した作品がどう受け取られたかどうかという問題でしかない。

俳優は自分自身の肉体や感情を素材・メディアとして表現をするので、その線引きがかなり難しい。「舞台に立つ自分」を自分の作品として客観視しなければならん。

作家が語彙力を磨くように俳優は人生経験の中で感情を学び、画家が質の良い筆やキャンバスを手に入れるように俳優は身体を鍛える。

私という人間は私で、観客に認めてもらう必要なんかないけど、作者の私は作品としての「舞台に立つ自分」を自分の手で作り上げて愛して自信を持って独立させることで初めて物作りをした人間になれる。

 

なので、まあ、そういう感じで頑張ります。(盛り上がってきた頃に車内で喧嘩っぽいことが起こり、うひょ!と眺めてたら完全に集中力切れた)