アンケート結果

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ラーメン屋のバイトを終え、裏の屋外休憩スペースで吸うタバコの趣たるや。格子の向こうには品川駅に集結していく線路が幾本も並んで広がっている。雨、冬の手前の雨。

人間ひとりひとりが遠くなっていくという感覚。

 

特別なものの特別さを強めるためには、特別でないものをしこたま拵える必要がある。己と無関係だったものにわざわざ注意を注ぎ、"退屈"とか"不必要"とかいったレッテルを貼って回る。結局人間は事物を相対的にしか評価できんのか。自己評価も然り。

 

タスクの締切が迫っているのでひたすらに読書へ逃げている。本棚を漁って、随分前から読みかけのまま放置していた本をいくつか読み終えた。ヘッセのデミアンと太宰の人間失格ドストエフスキーの賭博者を読んだ。デミアン人間失格は基本的に同じような話だった。みんな、罪とか罰とか、そういうことを考えるのがすきだな。罪についてなんて考えたことがあんまり無いな。罪ってなんじゃ。

改めて、自分と向き合うときのベクトルというのは様々だと思った。しかしもう内側にエネルギーを使うのに飽きてきた。外側へ放出しまくったのちに時たま反省会を催すのは良しとしても、いつもそればかりというのはどうかと思い始めた。早く外側へベクトルを向けたい。外側というか、あなたにエネルギーを注ぎたいよ、ははは

 

朝起きて夜寝る生活は精神衛生上とても良いと思われますが、色んなことに無感動になっていく感じもする。イリーガルとかアウトローという要素が私たちの機械的生物化を引き止めてくれるのではなかろうか。しらんけど。

 

程度にもよるけど、不健康ってなかなかよいものかもしれぬ

 

 

終電が、向かいのスナックの窓に映った。今日も1日が終わった。

金曜日。先週のPUNPEEのソファーキングフライデーをradikoのタイムフリーで聴き終わり、Apple MusicのPUNPEEプレイリスト?を聴き、全曲終わったと思ったらちょうど25時になった。ナイスタイミング!と今週のを生で聴き始めた今。

 

もうベランダでビールを飲むには寒すぎる。早々タバコを2本吸い終えリビングに戻る。

すきな人からの返事は来ないけど、金曜の夜はいつもそうだから特に気には止めない。言いようのない切なさを感じながら最早ただ眠くなるために飲んでいる発泡酒を流し込む。

切ない。なにが?

 

リスペクトできる人間がたくさんいることは幸せだと思う。心焦がれるものがあり、それに認められるように生きようと試みることは楽しい。遠ければ遠いほど、生きるエネルギーになる。

昔から憧れの人間と自分とのギャップに苦しみながらも、それを生き甲斐として生きてきた。

だのに、生きれば生きるほど「憧れられるもの」は減って行く。意外と世界は深くなくて、みんな実は手の届くところにいる。自分はそれになれなくとも、理解することが可能な範囲にしかない。

 

初めてスカイツリーの全体像を首を持ち上げることをせずに見える場所に行ったとき、とても感動した。その場所からスカイツリーにどんどん近づいて歩いていくにつれて、その建築物のディテールが現実的に見えてきて幻滅した。なんだ〜この建物、あり得るものであって建て得るものなんだな、と。

 

憧れを抱いている人間というのもそういうかんじで、近づいていけばいくほどその人が人間的で自分とそう違わないことに気がつくと、悲しいくらい幻滅する。遠くにあるべき存在というのは近づきたいという欲求を生んだとしても、近くべきではない。もしくはずっと遠くにあり続けてくれるくらい本当に本当に遠いものでなければならない。8億光年くらい遠く。

 

人間関係におけるコミュニケーションというのは、公的必要性に迫られる場合以外は、快楽の為のものだと思う。伝えたいという欲望から伝え、知りたいという欲望から受け取る。相手があって、相手に何かしらのものを与えたい・受けたいという欲望。

 

でもコミュニケーションって結局は跳ね返ってくる「自分」を受け取りたいだけなのではないだろか。相手が受け取っている「自分」の言葉を受け取るために話を聞いているんじゃないか?

愛されたいは率直な欲望として、愛したいという欲望も自分が投げた愛の跳ね返りとして何かを受け取りたいから愛したいだけなんじゃないか?もしくは「愛している」自分に酔っているだけ?

 

結局はお互いのオナニーなのではなかろうか。お互い自分を気持ちよくするために相手を活用しているだけなのではなかろうか?

そう考えた時、自分がオナ道具に使われているということより、相手をオナ道具に使っているかもしれないということに悲しみを感じます。

 

どんなに人を愛していると思っても、それは結局エゴであるかもしれないのだ。どこまで行ってもエゴ。死にたくなる話ですね

 

とか書いてたらPさんのラジオをまともに聞けず小袋のラジオが始まった。Pのあと小袋のラジオやってたの今知った…

 

あ〜娯楽というものについてもそのうち文章を書きたい。

世の中は切ないことばかりなので…

 

 

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https://youtu.be/7oMF9xlO93U

 

2.3ヶ月ぶりに酒を飲まずに布団に入ったら全く眠れないので文章でも書くか。

 

しばらくバッド期が続いていて、毎晩義務のように酒を飲んでいたがそのバッドの要因は主に酒による時間の浪費と身体的ストレスなのではと今朝気がついた。ので、酒を控えてみる試み〜

 

なんだか、馴れ合いのような日々を送っている気がする。他人に対しても、自分に対しても。そのくせ自分に重心を置いて生活が出来ない。いつも誰かにぶら下がって、その人の回転する遠心力でなんとか自分のグラビティを保っている(?)

馴れ合いというのは、傷つけ合うチャンスがないという感じ。言って欲しかろう言葉だけ言って、相手も同じように棘を取り去った言葉しか投げてくれない。さみしい。愛はその棘にこそあったりするのではないだろうか。さみしい。

 

ワイルドだとか、クールだとか形容されることがあるんだけど私は別にワイルドであろうとかクールであろうとか思ってはいない(そもそもワイルドとクールって正反対じゃね?)。

できるだけ社会の視線をガン無視して、本能が望むママの行動を取ろうと努力している。それがいつも自分の快楽に繋がるとは限らないんですけど。

とにかく、快楽を最優先することにした。快楽以外は全部偽物なので。この感覚に気がついたのが去年の秋頃だったかな〜 すべてのもの辿っていくと快楽欲に辿り着くのだ。きもちいいからしてる、きもちいいからコレしたい、コレほしい、こうなりたい、とな。

 

快楽にもいろいろあって、手に入れられそうなモノも存在に気がついてないモノもある。手に入れられなそうなら早々諦めて、獲得可能そうな快楽を目指すのもアリ。しかし きもちいい 度合いも違うから、諦めるべきでもたくさん犠牲を払ってまで追い求めてしまう快楽もある。それが人間の苦悩すかね。

 

あと最近思うのはね〜

さみしいひとは自分がさみしい自覚がないということ!さみしいひとは「さみしいんでしょ」と言われると、怒る。そして傷つく。

ていうかみんな孤独なのになんでそんなさみしくなさそうなんだ?私はめちゃくちゃさみし〜ぞ。さみしいことを自覚して、傷ついてしまった。さみしいのってダサいと思ってたので。しかしさみし〜もんはさみし〜ので仕方なし。さみC

 

さみしい自分をセルフで慰められるようになったら、と思うけどそれめちゃくちゃさみしくないか?かっこいい大人ってもしかしてみんなソレやってんの?

それかさみしいのは私だけでみんなは全然さみしくない人生なの?

くっそ〜くやしい。

 

 

 

作者と作品

作者と作品の関係性、というのはもう随分長らくたくさんの知識人達によって議論されてきた議題だと思う。しかし議論には実感というものが必要であって、最近物作りに片脚を踏み込み始めた私は改めてこの議題を持ち出して考察したい。

 

横尾忠則がこんなツイートをしていた。

https://twitter.com/tadanoriyokoo/status/1176422009716142081?s=21

 

私は横尾忠則が好きなのだが、彼を好きになったきっかけは彼が地元の美術館でY字路の絵を描いているのを生で見たことだった。彼の絵が好きになった。彼の絵を好きになった途端、横尾忠則の書いた文章というのがたくさん存在することを知り、目に付いたものを読むようになった。彼の人生観や思想を好きになった。彼の書く文章を好きになった。彼の思想や経歴を知ってから彼の絵を見ると、さらに彼の絵に引き込まれた。

私は横尾忠則のツイートを読むのが好きだった。彼の思想のライブ配信!人間・横尾忠則を好きな者として、同時代に生きていること、その日常や思想を随時知れることを嬉しく思った。

私は横尾忠則の作品も、その作者・横尾忠則自身も好き。彼がツイッターを作品をより多くの人に見てもらう為にやっていたとしたら、その目的は果たされなかったのかもしれない。でも人間・横尾忠則を好きな人々にとって彼のツイートは彼を更に好きになる動機となっていたことは間違いない。私もその1人だ。

 

世の中にはこのように、作者と作品どちらのことも好きになるということが当たり前ではない。作品は大好きだけど政治的な思想が合わないとか、人間性は大嫌いとか。でもそれが作品を嫌いになる要素にはなり得ないはずである。逆も然り。

作品は作品として、作者が作り上げた瞬間に独立する。作者が作品に込めた思いが全く正しく完全に伝わることなど(多分)殆どなくて、作品として出来上がった瞬間、作品という存在は受け手に委ねられる。

 

そういった意味で、何か芸術作品を学問として研究するとき、作者のバックグラウンドや思想に関する発言などから作品を読み解こうとするのはありがちな手であるが、これは間違っていると思う。作者が作品に込めた思いというのは、もしかしたら一部分発見することができるかもしれない。しかし、純粋にその作品という存在を研究しようとする場合には作者は考慮不要である。

 

先日、劇団の大先輩が「演劇を通して自分を好きになってもらおうとするな」と言っていた。その時は「うんまあそうよね」くらいにしか感じていなかった言葉が、先程伏線として回収された気がした。

俳優という表現者にとって、作品は「舞台に立つ自分」である。つまり、人間・俳優自身と「舞台に立つ自分」は作者と作品の関係であって、お互い独立した存在。作者は何かしらの思いを込めて演技をする。その演じた自分は作品として独立している者なので、いくら「舞台に立つ自分」が評価されようと、俳優の人間性を評価されたわけではない。自分が自信を持って作り出した作品がどう受け取られたかどうかという問題でしかない。

俳優は自分自身の肉体や感情を素材・メディアとして表現をするので、その線引きがかなり難しい。「舞台に立つ自分」を自分の作品として客観視しなければならん。

作家が語彙力を磨くように俳優は人生経験の中で感情を学び、画家が質の良い筆やキャンバスを手に入れるように俳優は身体を鍛える。

私という人間は私で、観客に認めてもらう必要なんかないけど、作者の私は作品としての「舞台に立つ自分」を自分の手で作り上げて愛して自信を持って独立させることで初めて物作りをした人間になれる。

 

なので、まあ、そういう感じで頑張ります。(盛り上がってきた頃に車内で喧嘩っぽいことが起こり、うひょ!と眺めてたら完全に集中力切れた)

 

 

アイハブノーマネー

表現を目的としてなかった、ただ逃げや発散として表現を欲していた頃の生き方が染み付いてしまっているな。

環境か生まれつきかは分からんが、傷つきやすい心を育ててしまったからには、と、なるたけ傷つかないように若しくはなるたけ早く傷を修復させる方法ばかり考えて生きてきた。小学生の頃から毎晩泣きながら1日を反省して、生きやすい自分を築いてきた。表現は自分を外側から眺めるための手段でしかなかった。

しかし最近モヤっと気がついてしまった。心の生傷を増やさないように生きることって感情を削ることなのではなかろうか?

感情が絶頂となる瞬間、心揺さぶられる瞬間を思い出そうとしても上手く行かない。心揺さぶられる瞬間がそもそもないのか、自己防衛の為に忘れ去ってしまっているのか。

生きる為に忘れる能力というのを身につけた覚えがある。例えば恥をかいた記憶とかってどんなに思い出したくなくても突如フラッシュバックして1人赤面してしまうこととかあるじゃないですか。それ、ツレェなあと思って意識的に押さえつけてしまう癖がついちゃってるな。

しかし表現の発端は感情の高ぶりであるし、どうにもならない感情のエネルギーが作品になるのだと思っている私は、こんなんじゃアカンのや。

 

上手く生きることと表現をすることは両立し得ないのかしら。やはりギトギトに傷つく人間の方が生々しい表現をできるでしょーよ。

でもね、悲劇臭いヤツは嫌だな。傷ついてることに酔っているような人間って確かに人間臭くはあるけども、もうそういうコンテンツ腐るほどあるし、飽きました。

もっとユーモラスでどデカイけど軽やかで、かつどっしりした物が見たいよね。

結局カッケーものがすきなのだ。刹那的でもよい、カッケーを求めていたい。

 

本当は茨の道を裸で進んだみたいに傷だらけなのにそんな事はおくびにも出さず飄々としていながら、やっぱり目の奥には孤独があるような、そんな人間を私はカッケーと思うな。

 

21年しか生きてないので人間データが足りてない。まだまだインプットをしなければならない。考察には材料が必要すわ。頑張りますけども。

 

 

 

摩擦ダンス

街を、人間を好きになるように好きになってしまうので大好きだけど大好きだからこそ友達のままでいたい、という感じで、大好きだからこそ住みたくないと思ったりする。

生まれてからずっと同じ街で生きているので薄っぺらい感情なのかもしれないけど、一度行っただけで生理的な無理だと感じたり、好きだけどあまり深く知りたくない街とかもある。気になってるけど私なんか受け入れられないだろうなあと思ってあまり行けない街もナ。

 

街を知ろうとするとき、なるだけ短期間の間に同じ道を何度も通る。自分の匂いを擦り付けると同時に街の匂いを自分に擦り付ける。自分の記憶と感情を街中にばら撒く。その行為は1人でやるのが1番よい。ひとと歩いた道を次の日にわざわざ1人で歩きに行ったりする、暇人にしかできない荒技です。なんとなく街に集中できないときは缶ビール買ってしゃがみこんで、道行く人たちを眺める。人も含めて街なので。

 

当たり前のことだが強い感情と共に歩いた街は自然と親しくなりやすい。毎日通っている街とはまた違う親しさ。神保町近辺なんていうのはまさにそれや。

 

生活範囲が変わればまた今過ごしてる街への感情も変わるんでしょうねえ。学校卒業してからも会う友達会わない友達いるのと同じように本質的に相性が合う合わないというのが離れてみるとわかるだろう、と特に生活変わる予定無いけどワクワクするのだー

早く自分の街を外側から眺めてみたいぜ。

 

新宿は私にとって存在が強すぎる。記憶と感情をばら撒きすぎたし、匂いを擦り付けすぎた。新宿にとって私なんか全くもって取るに足らない存在ですが、私にとって新宿はデカすぎる。片想いではあるが、この関係性がめちゃくちゃ好きっす…

 

新宿の路上で泣きながら缶ビールを飲んだ日々のことをいつかラップにして思いを告げたいYO、20年後くらいに

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キューバ革命以来のバースデーケーキ

生活をしたい、という欲望。映画をみたり本を読んだり景色を見て、ああ〜と自分の経験を回顧してエモくなったりすきな人と新しい感情を育んだり知らない経験を積む生活をしたい、という欲望。

何かを創造することがこんなにも苦しいとは思わなかった。まだ始まったばかりなんですけど。自分を切り開いて中身をまじまじと見ることの苦しみ。まじまじと見ることで反省される現状況、現在の他人との関係性とか蔑ろにしてた違和感とか。

未来は見ないようにしていたけど、どうしても見ざるを得ない。考えざるを得ない。つれぇ。

 

失うものはもうないと思い込んでいたけど、よく見てみるとこんなに沢山失いたくないと願う大切なものが自分の中にあった。びっくりしちゃった。びっくりしすぎて失わないようにと軽率な選択をしてしまったかもしれない。

後悔先に立たず。

「今」が思いのほか幸せだったこととか。「過去」が思いのほか豊かだったこととか。

たとえば「過去」が思いのほか豊かだったとして、じゃあどうすれば同じ豊かさに戻れるかと考えて、これまでの過程で得てきたもの捨てたら元に戻れるかというとそんなことはなかったのだ。

もう既に積み重ねてきた自分自身は元には戻せなかった。

 

これから先もたくさんの選択が迫られている。おそろしぃ〜選択したくない。自分の人生の責任を自分が担うのマジでヤダ。結局最初から最後まで責任は私にしかない訳だけど。自覚したくねぇ。

 

 

話が逸れるけど、私が選んだ全ての愛しい人たちに「快」の感情しか抱かないかといえばそんなことはない。一方選ばずとも致し方なく出会ってしまった人々に対する感情が全て「不快」かといえばそんなこともない。そんなことはみんな知っていますけども、改めて見直す時が来た。

一人一人の人間に対して、もっと丁寧になる必要がある。丁寧で且つ公平な視点。

 

いろんな選択を迫られている、21歳夏。

欲しいものは全部欲しい、嫌いなものは全部捨てたい。そんな融通が効かないところまで来てしまった。それも自分で選んだものなんですが。

つれぇ、おとなになるって…