寸止め睡魔

追われている。生活に追われなければならないという意識に追われている。

夢のような2週間だった。毎日劇場に通うだけで刺激が溢れていて、その刺激が自分の重みを感じさせてくれていた。終わった、何も終わってないしむしろ始まったのだが、その夢のような日々は終わった。儚かった。儚さがまた堪らないのよ。

 

自分で考えろ、と言う。自分で考えている、ずっと前から。しかし形にしたことは一度もないかもしれない。行動に移したことはあるけど。

 

行動して感じて考えることと、考えて感じて行動して創作することの大きな相違。私がこれから苦しむことはそこにあるんでしょうねぇ。

苦しむ前提でいることもおかしいが。嗚呼。

 

失うものは全てもうすでに捨ててきた筈なのに何故こんなにもビビってんのか。失う事が前提の獲得が怖いのか。

 

 

感情の言語化はいくらでもできるのに、状況の言語化は全くダメ。

こんなんでいいのですか?リセットボタンを押してください背中の左下にあるって説明書にかいてあったっけな

 

ホーミィって何だよ

「うまくいっている」という感覚はものの2秒程でいつも崩れ落ちる。崩れた瞬間に、自分が不毛な石積みをしていてしかもそれを永遠に繰り返さなければならない運命の中にいることに気がつく。不毛さを自覚しながらもまた石を積み始めて盲目的に熱中している。そんな感じですね。

 

 

私が後悔や罪悪感を感じる基準を作っている私はちょっとバグっていると思う。冷静に考えて背徳感が在るべき所で、何も感じていない自分が少し恐ろしい。一方不必要な所にトラウマになるくらい深い罪悪感を植え付けたりする。

プライドとか社会の目ではなくて、自分や好きな人間が傷つかないようにということを最重要事項として生活の反省をするからそうなるのかな。この最重要事項を変える気もないので別にどうでもいいのだけど。

 

 

最近、何者にもならないぞ、という心の気張りが自然発生した。多くの人たちが何者かになりたいのになれなくて悶える世の中に対するアンチテーゼとしてなのか、本当に心の底から望んでるのか分からん。何者でもない者になるという矛盾が起こっているジャン!という指摘はまだ私の中に無いみたいです。

行動を起こし始め視界が少し良くなったせいで道筋が現れた為に生じた未来を考える義務を拒否しているのかもしれない。永遠にホーボーで居たい、と思う現時点。

 

社会がこわい。社会の吸引力がこわい。社会の歯車に知らぬ間に巻き込まれてしまうのでは無いか、と日々ちびりそうなくらいこわがっている。自分が盲目でありながら盲目であるという自覚をそのうち失ってしまう気がする。

 

こえ〜!あらゆるものがこえ〜!自分さえこえ〜!!!

 

救われようと、発泡スチロールのように繊細で軽い心を持って日曜夜の新宿に出かけたら案の定砕けてポロポロになっちゃった。

5キロ以上の重さのリュックを背負って日々通っている新宿を、超軽装とふわふわの心と体で見上げたらいつもと少し違った景色が観れたので良いという事にします。

 

あしたから何とかなると思いますたぶん。また無心で石を積む日々をやる。

 

 

 

 

タンドリーチキンを割いて食べる

昨日の稽古終了後から現在にかけて人間としての調子が最高潮の状態。明日、もしくは数時間後には下り坂をゴロゴロと転がる羽目になる予感がしている。21年生きてきた経験上、幸福や調子の良さというのは実感した瞬間に終わるということを私は知っている。学ぶ生き物なので。しかし下り坂が視界に入りかけたら真上を向いて歩いて、上り坂のてっぺんでしか見えない1番近い空を記憶に焼き付けて、下り坂に差し掛かった瞬間にふと足元掬われる様に転げ落ちるのが1番無駄がなくて良いということも学習済みである。私は上しか見ないぞ。そのうち羽が生えて飛んでっちゃうことを期待しつつな。

 

調子が良すぎるので文章に規制が効かずキモい。しらん。

 

私としてはかなり多忙な日々を送っているので、映画を観たり本を読んだりしたいと思いつつも映画を観たり本を読んだりする暇がない。クゥ。こんな時には暇なのに天井だけを見上げてた春休みの自分を恨みかけるのだが、あれはあれで必要な時間だったのだと何だかんだ許してしまう。自分に最も優しい人間なので過去の自分も絶対に責めない。優しい世界。

 

映画は観れていないが、観劇はせねばということで一昨日、劇団東京乾電池のアトリエ公演を観に行った。

竹内銃一郎作『眠レ、巴里』

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不条理劇だった(たぶん)。不条理劇というのを初めて生で観たので、お〜これが不条理劇か、となった。ハルムスの不条理劇を戯曲で読んだことはあったけど芝居を生で観るのは初めてだった。観終わったあと、脳みそを整理することができず、エネルギーの行き場を見失った為にケバブ屋のおじさんが鳩に餌をあげてるのを立ち尽くして見ることしかできなかった。困惑の仕方が分かりやすい。

観劇という行為をそこまで経験したことがないので、観劇の感想を述べること少し躊躇われるけど調子がいいので述べちゃおうかな〜

 

そもそも、アトリエ乾電池のサイズ感に驚かされた。小さい。あと袖が舞台奥の少し上がったところにドアがあるだけだった。そういやスズナリもドアになってるな。アングラ演劇の劇場だと普通のことなのかな。知識がないのでわかりません。

大道具もなく、舞台にはベットを模したシーツがあるだけ。ほう。という感想を持った。

 

まあそんな感じで…

ふむ…

(感想書くのめんどくさくなってきたなあ)

 

です。

 

まあ全てを省略して薄っぺらい感想を述べると、面白かったぜ!!!だって終わってからこうやって悶々と考えさせるコンテンツは全て面白いってことだろ!!!な!!!

芝居としては会話のテンポ感がすごく良かった。被せ気味の速い会話が心地よかったし、非現実的で興奮した。笑えた。俳優も良かった。観ててグッとくる演技だったと思う。細かいことはコメントするの恥ずかしいのでやめます。

 

そもそも東京乾電池の公演を観に行こうと思ったきっかけとして、先月に『柄本家のゴドー』をなんとなく行ったユーロスペースでなんとなく観て、

柄本明の劇団そういえば全然知らなかったな下北にアトリエあんのかこんどみにいこー

となったからでした。

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柄本明カッコいいよな人間として。映画自体かなり良くて、稽古が始まる前だったのでこれから自分が俳優を目指すことに対する腹くくりが果たされたのと、ベケットの存在を知るきっかけになった。無知なので外に出ると色々知れて楽しいね。

ちょうどゼミのテーマとして「道化」を考えていたタイミングだったので不条理劇と道化というテーマが繋がり、鑑賞後、ガッテン!!!というきもちになった。年に5.6回そういう気持ちになる瞬間あるよね。いい気持ちだよね。

 

今回は柄本明の演出ではなかったので2ヶ月後の柄本明演出のアトリエ公演もまた観に行こうと思った。来月は別役実の戯曲を演るということなのでそれも気になる。3ヶ月連続アトリエ公演ということでスタンプラリーをやっていたし、数見るには基本的にお高い観劇料も2000円というお手頃さだったのでよい。

 

最後に2点、わたくしの方からどうでもよい報告をします。

 

まず、銭湯のサウナで(おそらく)持って帰ってきた水虫が痒い。思い出したらもっと痒くなってきた。早く病院行って薬もらって直さないといつまでたっても銭湯に行けない。

 

そして1.2ヶ月前まで納豆嫌いを自称してたんだけど、なんか良くわからんが最近納豆を毎日食べている。納豆キムチで基本的に全てがなんとかなる。人は流れる川の如く変わりゆく生き物ですね。

 

数日後に迫ったゼミの発表準備しなきゃならないのでさっさと家に帰って寝ようっと。忙しいのにゼミに参加して発表もやってエラい。えらすぎてエラスムスになってしまうな〜

 

 

 

 

 

驢馬はアホの象徴的な動物だと一昨日知った

前に友達に教えてもらってナントカ占いというのをやった。名前が難しくて覚えられないけどカタカナか平仮名のナントカ占いというやつで、生年月日を一桁になるまで足していって最後に出た一桁の数字でその人の性格かなんかを言い当てるみたいなやつ。

占いや性格判断みたいなものは自分のお気に召したものだけを信用するタチなんだが、そのナントカ占いに関してはあまりにも気に入らなかったので覚えている。占いというかアレは性格判断だな。

それによると私は思慮が浅くて他人に冷酷な人間らしい。

え?思慮が浅くて他人に冷酷?

私が自覚している性格の真反対のことを言うではないか。思慮が浅くて他人に冷酷?思慮が浅くて他人に冷酷?思慮が浅くて他人に冷酷?

 

ほう。

 

そもそも思慮が浅いとか他人に冷酷だとか、それは相対的判断なわけだけど、思慮の深浅さとか他人に対する態度なんてどうやって比較するんだ。主観的なので比べようが無い。

それは私の中で本当はもっと思慮深く慣れるのに・他人に優しく出来るのに全力を尽くしてそれらを行なっていないということか…?

 

このナントカ判断の結果にモヤモヤしたのでその後から自分でそれらの点を注意深く確認することにした。

 

思慮に関してはツイッターが良くないかもしれない。思いついたことをすぐ言葉にして140字で収まる範囲でアウトプットしてしまうせいで、思考が140字以上進まなくなっている可能性がある。

他人に冷酷という点は、たしかに他人に対して速攻で心を開き気に入った人間には全力で愛情を注ぐけど突如"全てがメンドクセーフェーズ"に突入した時、興ざめして 結局全員他人だわクソ という気持ちになることがあるナア。と気がついた。

自己反省をするキッカケを与えてくれたという点ではこのナントカ判断は無駄ではなかった。アリガタイネェ。

 

気づいたことの中で興味深いのはツイッター思考というやつで、言葉と思考というのはかなり密接に結びついているというのを体感した。

 

前に「キリスト教的」というのと「ヨーロッパ的」というのが我々どちらにもあまり直接的繋がりのない日本人にとっては一緒くたに考えられがちだが実は起源として全く異なる、って話を授業で聞いたのだけど、キリスト教は元々ユダヤ教が発端でユダヤ教ヘブライ的思想が根っこにあるわけですね。

選ばれた民が神の十戒を守って行動することを基本としているヘブライ的思想はまず「行動」が何よりもまず大事。(たぶん)

一方ギリシア哲学を根源とする「ヨーロッパ的」な思考というのはロゴス(言葉)があって初めて思考が生まれるという思想。(多分)

 

ゼミの研究を進めたりヨーロッパ文学とか映画を観てるとたしかに例えばフランス人なんかは言葉を発して(書いて)から思想を組み立てていくという流れがスゲー見える気がする。(たぶん)

ヘブライ的」なモノを何かから見出せたことがないのでその二つの比較はまだ自分の中でできてないんだけど、「ヨーロッパ的」と日本的なモノはかなり相対的だなあと個人的に思えた。(たぶん)

でも我々日本人にとっても、言葉で思考をするというのは言語を基本的に用いて物事を考えてる人間としてしっくり来るものがあって、話が前に戻るけど、言葉を制限されれば思考の範囲も狭まっていくんだろうな、と感じますねぇ。

大戦中の全体主義ソ連を模したディストピア小説の中でも「言葉の制限」みたいな政策は見られるし、権力は言葉が思考の必須材料だということを理解していたのだな〜と。

 

知ってる言葉が増えれば増えるほど、自分が物事を考えられる能力というのは広がっていくし、言葉を発する(書く)機会が増えれば増えるほど、思考をするタイミングも増えていくナ。

 

ということがわかったので、ナントカ判断が私に言葉について考察する機会を与えてくれた。サンキューナントカ判断!

 

今までで1番つまらない文章を書いたなという達成感があるのでこれで終わり。無駄な文章も無駄ではないのだ。(たぶん)

 

 

 

 

 

 

冗談みたいな床ずれ

獲らぬ狸の皮算用ばかりしている。

しかもこれから実際に現れるかも分からない不幸を胸算して早くも身の丈に合わない不幸と判断し、拒否をしようか腹をくくろうかなぞ考えている。アホくさ。

 

みえてるもんだけでイイじゃん〜 脳みそとっちまいたい

 

日々の刺激が今まで生きてきた中で1番激しいにも関わらず、何食わぬ顔で淡々とこなしている自分が恐ろしい。

えーこんなことできちゃう人間だったの?それともそろそろ発狂するころ?

 

冬の頃みたいにどんよりとした気持ちになる瞬間は前ほどではないが多少あって、しかしその鬱々とした感情の要因が内側ではなく外側にあるというのがなんとも慣れない。鬱々な私を哀れむ私が責任の所在をいつも自分の内側に見出し自己処刑ばかりしてたけど、どうやら最近私を鬱々とさせる加害者は私の外側にあるらしく、なんならとても理不尽な理由で傷つけられているらしく、へぇ〜そんなこともあるんですねぇ、という驚き。自分が悪くないってなんかフワフワしてしまう。

 

ところで働き始めてから 社会はクソだ という私の口癖に重みが出てきたのではないだろうか。就活する友人達と共有するもの(社会への憎悪)が出来て嬉しい反面、自分がどれほど純粋なものだけを見て生きてきたか知り、永遠にこの今まで生きてきた透き通った冷たい綺麗な水の中で汚れることなく死んでいかれたらと願うようになった。社会はクソだ。個人は愛すべきだが社会は恨むべき存在だ。

 

思うことがたくさんあるので文章を書きたかったけど、疲れてそんなことこれ以上できない気がするので明日か明後日までにきちんと何を書くか決めて書こう。

天井をただ眺めるだけの時間が減ってから、自分の考えをアウトプットしたいという欲望も薄れていってる。

なんのためだ?

 

顎の角度について

私の部屋の窓はやや東向きなのでカーテンを開けっぱで寝ると朝日がかなりの強さで差し込んできて眩しくて目がさめる。この起床法で、最近は日の出が早くなってきたので何時に寝ても(よほど眠りが深くない限り)6:30には1度起床する。今日も6:30に1度起きて、ぼやっと寝返りを打ちながらさっきまで見てた夢を回想しつつ、うつ伏せになったら2度寝していた。うつ伏せになると眠くなるシステムらしい。

めちゃくちゃ繊細で且つめちゃくちゃ怒りっぽい白人のおっさんとお付き合いする夢を見て起きた時すげー疲れていた。最近TwitterのTLにモーリーロバートソンが浮上しすぎなせいだ絶対…。

 

きっかり9時に2度目の起床。春休みが始まって以来、昼頃に起きて1日を無駄にする経験を数え切れないほどし、こんな私でも流石に学習をしたのか、もっとダラダラしてたかったけど起き上がってコーヒーを淹れた。コーヒーを淹れることができれば自ずと1日が始まるのでこっちのもんです。

 

めちゃくちゃ天気が良さげだったので出かけるのを諦めた。天気のいい春の日曜日に外に出たら悲しい気分になることはもう学習済みである。

前勝手に父が録画を消して私が激怒したムーンライトを父が録り直してくれていたのを思い出して、そろそろ観ないとまた消されると思ったので見始めた。まあまあだった。黒人同士がお互いニガと呼び合うのが好きなのでそれが見れてよかったし、私もムキムキマッチョニガになりたいな〜金歯かっこいいな〜と思った。映画の中で流れるヒップホップとかソウル系の音楽がイカしてた。

 

観終わってからハラショーな天気のベランダで一服して、映画を回想してたらなんかすごい強い気持ちになってきてもう一本映画観たら最強になっちゃうな〜と思い、せっかくの日曜日だから最強になっちゃおう〜ともう一本観ることにした。

 

二本目はレディー・バードをみた。結構最近まで上映してたからアマゾンプライムにあってビックリした。めちゃくちゃよかった。女による女についての女のための映画だった。誰かの娘か、誰かの母親である人に観て欲しい。良い映画ともう一回観たくなる映画はイコールではないけど、この映画は良い映画だしもう一回観たい映画だな、と思った。好きな映画の一つになった。

 

「女による……映画だな」とシャワーを浴びながら映画を回想してたとき、関連でフェミニズムについて考えた。女は、社会の中で女であるというレッテルを貼られることをなんでそんなにマイナスに捉えるのかな〜。レッテルを貼られることは受け取り方によっては権利を与えられてることと同じになるのではないかな、とか思った。ちょっと違うけどそんなようなことだった気がする。私たちには生物的・社会的・性質的に私たちにしか出来ないことがたくさんあるのに、出来ないこととか奪われる権利にばかり目を向けるのは損じゃないかな。社会に出たことない小娘なのであんまり大きな声でそういうこと言えないけど…と自覚はしています。そのうち本格的に考えようと思う。

 

レディー・バードをみたらとても気分が良くなってしまって実際に最強になってしまったので映画鑑賞はやめてとりあえず外に出た。16:30。目的もなく新宿行きの各停に揺られながら、無職の女の人のブログを見たらとてもよかったので読者になった。

感化されてこの文を書いてたら新宿についた。何しよう。金ないけど、今日は寒いし、もう日が暮れるので外にいるのも苦痛だ。とりあえず体がキンキンに冷えてどうしようもなくなるまで散歩でもしようかと思います。

ほんとは上野に行きたい。

 

 

乗車率140%

 

春なのに、恐ろしいくらい幸福で切なさや寂しさをほどよい程度にしか感じないのでとても怖いぞ、2019春。

 

大学3年生としての春休みがそろそろ終わろうとしている。休学をするし、新生活の始まりが5月なので4月も一応何もないけど、春休みとしての日々は残り1週間くらい。

2月の頭から始まった春休み、どんな風に過ごしていたかというと、

人、人、街、人、孤独、人、人、物語、人、人、物語、孤独、人、孤独、人、人、街

みたいな感じな気がする。

山を登ったり下ったり海を泳いだり溺れたり、という感じでもあった気がする。

あんまり覚えてねえ。

とりあえず人に会わねば、と思って人に会っていた。何度も会ってる人と会っても、新たな出会いだ!と感動したりした。たくさん喋っていろんなものを発見したり再確認したりもした。

人に飽きてもう会いたくも喋りたくもないな、と冷酷人間のようになることもあった。

とにかく人だった。

結局人だった。

 

日本にも人はたくさんいるんだな。少子高齢化で人口は減る一方の日本にも意外に。確かに街に出て見かける人や出会う人は自分より圧倒的に年上ばかりで、むしろ年下なんて1人も出会ってない。女子高生とかホントにいるのか?知り合いに1人もいないんですけど。どこで女子高生と出会えるのかとても知りたい、オッケーGoogle女子高生と出会う方法、検索。

 

2年前にインド行った時、なによりもショッキングだったのが人間の多さだった。色んな人に話した気がするけど、数日インドで過ごした後、夜眠ろうと目を瞑ったら沢山の目が暗闇の中でこちらを見てる光景がまぶたの裏で広がって、怖くて眠れなくなった。ちょっと発狂しかけた。街中の景色を占めてるのはほとんど人間で、そんでみんな何の遠慮もなく少し珍しい東洋人の顔をジロジロジロジロジロジロ見る。見られてる時はそんなに気にしてないんだけど目を瞑るとその視線が突然自分を刺してくるという。めちゃ悪夢でした。3週間いたら流石に慣れたけど。

 

まあとにかく人間なのだ、私が生きてるの。人間の中に生きてるな。人間のことしか考えてないし、人間でしかない私も。

クソどうでもいい再認識です。

 

なんかちょっときっかけがあって過去のことを考えたら、過去の人間たちのこと思い出して、その過去のそれぞれの人間たちに抱いていたそれぞれの感情をもう全く思い出せなくて、いや思い出せることには思い出せるけど、もう何も感じることができなくて、切なくなってしまった。失っていくことは本当にいつも切ない。

 

春はこういうことを想起させる季節だから心が落ち着かないんだよなあ。

それだのに今年はそれを上回るように幸福を感じていて、それがめちゃくちゃに怖い。ここまで幸福を切実に感じると、そろそろ死期が近いのではないかとビビる。死んだことないからちょっとよくわからないのですが。

 

書いてるうちに全てがくだらなくなったので終わり。