驢馬はアホの象徴的な動物だと一昨日知った

前に友達に教えてもらってナントカ占いというのをやった。名前が難しくて覚えられないけどカタカナか平仮名のナントカ占いというやつで、生年月日を一桁になるまで足していって最後に出た一桁の数字でその人の性格かなんかを言い当てるみたいなやつ。

占いや性格判断みたいなものは自分のお気に召したものだけを信用するタチなんだが、そのナントカ占いに関してはあまりにも気に入らなかったので覚えている。占いというかアレは性格判断だな。

それによると私は思慮が浅くて他人に冷酷な人間らしい。

え?思慮が浅くて他人に冷酷?

私が自覚している性格の真反対のことを言うではないか。思慮が浅くて他人に冷酷?思慮が浅くて他人に冷酷?思慮が浅くて他人に冷酷?

 

ほう。

 

そもそも思慮が浅いとか他人に冷酷だとか、それは相対的判断なわけだけど、思慮の深浅さとか他人に対する態度なんてどうやって比較するんだ。主観的なので比べようが無い。

それは私の中で本当はもっと思慮深く慣れるのに・他人に優しく出来るのに全力を尽くしてそれらを行なっていないということか…?

 

このナントカ判断の結果にモヤモヤしたのでその後から自分でそれらの点を注意深く確認することにした。

 

思慮に関してはツイッターが良くないかもしれない。思いついたことをすぐ言葉にして140字で収まる範囲でアウトプットしてしまうせいで、思考が140字以上進まなくなっている可能性がある。

他人に冷酷という点は、たしかに他人に対して速攻で心を開き気に入った人間には全力で愛情を注ぐけど突如"全てがメンドクセーフェーズ"に突入した時、興ざめして 結局全員他人だわクソ という気持ちになることがあるナア。と気がついた。

自己反省をするキッカケを与えてくれたという点ではこのナントカ判断は無駄ではなかった。アリガタイネェ。

 

気づいたことの中で興味深いのはツイッター思考というやつで、言葉と思考というのはかなり密接に結びついているというのを体感した。

 

前に「キリスト教的」というのと「ヨーロッパ的」というのが我々どちらにもあまり直接的繋がりのない日本人にとっては一緒くたに考えられがちだが実は起源として全く異なる、って話を授業で聞いたのだけど、キリスト教は元々ユダヤ教が発端でユダヤ教ヘブライ的思想が根っこにあるわけですね。

選ばれた民が神の十戒を守って行動することを基本としているヘブライ的思想はまず「行動」が何よりもまず大事。(たぶん)

一方ギリシア哲学を根源とする「ヨーロッパ的」な思考というのはロゴス(言葉)があって初めて思考が生まれるという思想。(多分)

 

ゼミの研究を進めたりヨーロッパ文学とか映画を観てるとたしかに例えばフランス人なんかは言葉を発して(書いて)から思想を組み立てていくという流れがスゲー見える気がする。(たぶん)

ヘブライ的」なモノを何かから見出せたことがないのでその二つの比較はまだ自分の中でできてないんだけど、「ヨーロッパ的」と日本的なモノはかなり相対的だなあと個人的に思えた。(たぶん)

でも我々日本人にとっても、言葉で思考をするというのは言語を基本的に用いて物事を考えてる人間としてしっくり来るものがあって、話が前に戻るけど、言葉を制限されれば思考の範囲も狭まっていくんだろうな、と感じますねぇ。

大戦中の全体主義ソ連を模したディストピア小説の中でも「言葉の制限」みたいな政策は見られるし、権力は言葉が思考の必須材料だということを理解していたのだな〜と。

 

知ってる言葉が増えれば増えるほど、自分が物事を考えられる能力というのは広がっていくし、言葉を発する(書く)機会が増えれば増えるほど、思考をするタイミングも増えていくナ。

 

ということがわかったので、ナントカ判断が私に言葉について考察する機会を与えてくれた。サンキューナントカ判断!

 

今までで1番つまらない文章を書いたなという達成感があるのでこれで終わり。無駄な文章も無駄ではないのだ。(たぶん)