カオス

晦日の前の日なのでブログを始めました。キリが大変悪いですね。キリが悪いのって大好き。

キリが良い悪いという話になると思い出すのは学校のノート。あんまり関連性はない気もするけど、ただ学校のノートの話がしたいのでします。学校の授業ノートを新調すると第1ページめは(横書きの場合は)右の半ページだけだから、とそこを飛ばしたりする人がいますね。やっぱり左の隅から書き始めたほうがキリが良いという心理かな。

わたしも小学生のころはそうだった気がする。第1ページを抜かして書き始めるのはもちろん、新調してすぐはペンの色やらノートの書き方やらのルールを細かく決め、1字1字いつもの5倍くらい丁寧に書いて、授業が終わった頃に完成している美しいノートを眺めてウットリする。数日経てばそんな意識も薄れて、いつも通りの汚いノートになっているなぞ考えもせず。

 

しかし数年後に、そんな最初のページだけやたらに綺麗なノートを眺めたりする(昔のものを捨てられない懐古厨なので)と、そのカオスさがなんともエモくてにやにやしてしまう。字の変化やノートの構成の変化から、その日その日の自分の気分が読み取れて、まるで日記を読んでいるような感覚に陥る。そんな時に、あ〜カオスこそ自分だ、自分ってものはカオスなのだ、と気がついてからノートはできる限り自分の気分に沿って書くようになりました。あとで眺めた時に楽しめるように、「本日の気分」を前面に押し出したノート。ノートの隅に一行日記を書いたりさえしていました(今もする)。

 

そういうこと、自分の書いたものを眺めることに喜びを感じている、ということに気がついた時、わたしは自分の吐き出したものが愛おしくて堪らないのだと気がついた。昔書いてたブログ、昔書いた詩、昔書いた手紙。そういうものに心の底から愛を感じるのです。21年近く生きて、自分のことが好きかどうかという自問自答をするとハッキリとYESとは言えず、なんなら自分のことが嫌いだと思うことの方が多い。でも自分から出たものは好きだと即答できる。自分の書いたものを読む時、自分を他者を見つめるように冷静な目で見つめることが出来て、他者を愛するように愛せる。

 

そういうわけで、わたしは文を書くのです。文を書きたくて書きたくてたまらない。言葉にしたくて、言葉を文字にしたくて、そしてその文字をまるで他者が書いたもののように自分と切り離して読みたくてたまらない。たまらんのです。どんな欲求を満たしているのか分からない。でも本当に、「快感」なのです。

インスタアカウント2つ、ツイッター4つ、FacebookTumblrでもアカウントを持つ自分はSNS狂なのだと自覚していますが、他人からの承認欲求からそうなったというより、自分による自己承認を求めているのでは、というのがセルフ推理による現在の見解。

 

そういうわけで、2019年は文章をたくさん書いて、にやにやしながらそれ眺めようと思います。自己完結で自己満足出来ることが快楽なんて、幸せ者だねぇ。

 

おわり